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だから、私はコンサートをすることにした。

2019年、7月、会社を辞め、オリンピック開会式前日の2020年7月23日、調布グリーンホール。 オリンピック閉会式翌日の2020年8月10日調布たづくりホール確保した。 そして2020年3月24日オリンピック延期。新型ウィルスによる集会禁止。 一生に一度の地元のオリンピックで、外国から来た方に日本の音色でおもてなしをするという企画が、未曽有の事態によって、違う方向へ。 いつも最悪に見える人生のタイミング。運命は自分にいったい何を教えようとしているのか。 たった一人の音楽パートナードンとドンキホーテのように無鉄砲な企画に立ち向かう名もなき車いす。空を飛べるか。

"キーワード"カテゴリーの記事一覧

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  • クリスタル 木村晴衣 口コミ
    このキーワード、いまずっと調べていた。

    私が突然、夢のような計画をたてたときから、姉がスピリチュアル系の本をくれるようになったので、夜行高速バスのなかで読みつつ気分は盛り上がって幸せだった。

    (帰ったら神だなに自分の写真を飾り、白檀のお香をたき、香りのいいお茶を備えて13日間、祈祷して、人生を逆転しよう)と真面目に考えながら、ふと、何日もかかって読んでいるこの本の著者が気になってきた。



    調べているうちに、履歴から何から、全てが本人の書いたものだったり、怪しいリンクだったりする。しまいには、たぶんかなり信じて投資してきた病的なヒーリングマニアの人が、その人の高額なカウンセリングを受けて、スピリチュアル用語で、何日にもわたって非難しているブログを見る。

    心が萎えてきた。

    この著者は履歴に、感心させられるクリスタルの会社と作ったスクールと、スピリチュアル研究について書いているが、その証明はどこにもない。はっきりわかったのはのはクリスタルをネットで売っていてカウンセリングをしていることだけだった。

    調べる自分もいやになって、楽しかった気分は現実に引き戻されてしまった。

    自分が納得できる考えならば、軽く読んでハッピーになって流せばいいのだろうが、よく、読んだ末に著者について調べて嫌な気分になることがある。

    女は面倒くさがりで、感覚的なので、感覚的に喜ぶものを受け入れて幸せになって、すぐに忘れて、次を探す。感動を男性に語ると、男性は眉をしかめて、それどこの誰が言ったの?と面倒くさく聞いてくる。

    どちらが幸せかわからないが、私も女側に片寄った人間だ。せめてバランスをとるために、ヒーリング系の本を読むときには先に著者について調べてから読み始めようと思った。
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  • オリンピック 日本 サービス
    実家福岡に一時帰省することにした。

    福岡行き高速バスに乗る前になんと、車イス左のタイヤがぺったんこに潰れている。バスの受け付けに言ったら空気入れを持ってきて、空気をいれてくれる。しかしパンクしており、いれた端から抜けていく。

    そういった、預かり知らぬトラブルに、バス会社の必死に対応してくれている横で、サービス担当でずっと立ち続けている若い女性はボーッと見ているだけである。後でわかったが中国人だった。

    本当に最近は人手不足らしく、サービスの顔になるような場所にも外国人の接客スタッフが多い。

    高速バス、博多号に乗り込んで車イスを胴体にいれてもらい、手すりと背もたれを頼りに座る。

    私は立てるころからこの博多号を使い続けてきたが、乗るたび、時代に合わせて変わってきている。

    今回は前方3席は2列の個室になっていた。座席は黒いマッサージチェアみたいな椅子にグレードアップ。コンセントの代わりに差し込みがusbになっていて、手元明かりは二ヶ所になり、ピンポイントの範囲が鋭く小さく明るい。カーテンが、つながっておらず、個別にそれぞれ前方にぶら下がっている。
    そして、カーテン閉めるようにという案内の代わりにご自由に開けて夜景をごらんください。左側は、途中で閉めに来ますとのこと。

    閉塞感がへり、体が楽になった感じ。そして、気づいたのはアナウンスの声の素晴らしいこと。心配りと愛がこもっていて、狭いバスのなかで、(どうもありがとうざいます。田中さん!本日だけといわず、これからも宜しくね。)と頭を下げたくなるようなアナウンス。かなり訓練されている感じがする。

    この日本の夜行バスの、経験の蓄積からなるサービスは、世界に誇れるのではないか。

    狭い国土で、和を尊びつつも、自分の空間に拘りつつ生きる日本人が、究極の狭い空間で、他人と一晩を過ごすという大変な制約。起こる問題を一つ一つクリアしてきたこのサービス。

    オリンピックに向けて外国人が増えることを見越して、バスのサービスにも、ものすごく力をいれているのかもしれない。旅行者にとって、バスは値段的にも、便利さからいっても、大変有難い乗り物だ。

    バスターミナルでは、外人さんににこやかに説明をする社員が生き生きと会話し、その勢いで私にも、(なにかお手伝いできることはありますか?)とあちらから声がかかる。

    日本人は、外国に留学したりという人が減り、国からでなくなったと聞く。しかし、国内には外国人が増え、いながらにして国際化していかなくてはいけない状況がある。

    これからの日本は、とことん平和と和を尊びつつ、古いものと新しいものと異質なものを全て受け入れ、サービス精神というものを教えられる世界が学びにやって来る国になればいいなあ、とおもうのだった。

    だから引きこもっている心優しき沢山の引きこもり日本人が外に出てこられるように、もっと働きやすい世界になってほしいと思う。


  • 日本人らしさ
    最近、コンサートのことで、にわか作りの主催者である私は少々叩かれている。

    歌おうと思っている君が代について、その編曲について、儀礼について、有料公演をすることについて、芸能についてなど。

    最もだと思うこともあれば、それが正しいとは一概には言えないと思うこともある。落ち込んだり、腹が立ったりすることもあるが、こうやって、ひきこもっている場所から出てきて、人と関わり始めたから起こるジレンマは、有難いと受け入れるべきなんだろう。

    試行錯誤だ。

    私は長いものに巻かれるタイプで、非難されると萎縮するし、人の反応にびくびくするタイプだ。今までの人生で何かを変えたこともなく、まるで、電車の風景のように世の中を見ながら通り過ぎてきた。

    そんな私でも、いろいろ政治や宗教や信条みたいなことについて熱く語ったり、闘ったりすることもあった。

    そんな時に気づくのは、自分がこだわっていることに関して熱く語っているとき、自分の顔は目がつりあがり、冷静でなくなっていて、それを非難されたとき、言葉に出さずとも「自分が正しい」という気持ちで、その人の考えだけでなく、その人自身に対しても攻撃的になってしまう。

    そんなときは、「あ、これは日本人らしくない。」から、やめようと思う。日本人はたぶん、そういうことが嫌いだから、政治や宗教などの話はお互いにしない。皆が人と戦わないように気を付けている大人だらけだ。

    日本人は人を非難するよりは謝っている方が気持ちが楽になる。非難を言葉に出すと、すぐに自分の心の中を振り返ってしまうからだ。振り返ってしまうと、その人に石を投げることはできなくなる。

    謝るだけでは済まず、自殺する人も多い。最近は、「空気を察して世の中に迷惑をかけないようにしなくてはいけない世間」の息苦しさに疲れたのか、ひきこもりが増えていると聞く。

    私ぐらいの世代で親がまだ健在の人たちが、家から一歩も出なくなったり、心を病んだりしている

    日本の神社には何の神仏の像もないが、鳥居だけがあり、どんなひとも迎え入れる。そして、祭壇に何があるか。鏡だ。

    迎え入れ、受け入れることも大事。でも、一番大切なのは自分自身かもしれない。

  • 劇団カクスコ 井之上隆志 
    18から東京に出てきて演劇の勉強をしていた時期がある。その頃はもちろんまだ車いすではなく、よく下北沢や新宿などあらゆる小劇場で芝居を見ていたものだ。好きな世界を、所属したいと思える場所を探していた。そして見つけたのが「カクスコ」だった。



    「角型スコップ」からきた劇団名だが、とにかく好きだった。6人の男たちが一つ屋根で生活する何気ない日常の一コマ一コマを、ユーモアと落語のような小気味いいテンポの会話で見せ、大きな事件もドラマも起こらないただの日常が、本当に暖かくていとおしく感じてしまう芝居だった。

    劇中でさりげなく歌うアカペラのコーラスは劇団の勢いそのままにエネルギッシュで、魂がこもっていて感動させられた。14年の活動期間の中で人気はうなぎのぼりで、テレビでも放送されるようになり、新宿TOPSでの公演のチケットはいつも完売。当日券も長蛇の列を作った。

    私は好きなあまりに知り合いの知り合いであったカクスコのメンバーに会いに行って、入れてほしいと頼んだが、女性は入れる予定はないといわれてすごすご帰ってきた。カクスコの芝居に女性は一人も出てこないのだが、どうしてもあの世界の一員になりたかった。

    解散したのが2001年だった。あのカクスコの芝居をまた見たくて、ニコニコ動画会員になったことがあったが、今日YouTubeにもいつの間にか沢山アップされていた。

    カクスコで一番好きだった井之上隆志さんは、今どんな活躍をされているのか久しぶりに調べた。すると、なんと2017年56歳、癌でなくなっていたことを知った。

    https://www.sankei.com/entertainments/photos/170308/ent1703080009-p1.html

    そういうわけで今日はカクスコの最後の公演を見ながら、改めて彼らの芝居の世界に浸ってしまった。心が暖かくなった。



    カクスコは自分の青春だったと思う。会ったこともない井之上さんが大好きだった。きっと仲良くなれたのではないかと思う。カクスコには遠い知人がいたのであの時、会うことはできたと思う。

    手の届かないような人でも、死んでしまうと同じ時代に生きていたんだから、どうしてあってみなかったんだろうと後悔する。

    柳家小三治に調布グリーンホールの駐車場であったことがある。あの時はものすごい勇気を出して、「素晴らしかったです。」と声をかけたら、一度座った助手席からわざわざ降りてきて「ありがとうございます。」と頭を下げられた。忘れられない思い出になった。

    宮本亜門にも生きているうちに一度会っておかないと、まじめに思ってみる今日だった。
  • 赤毛の坊主になる

    最近髪を赤毛の坊主にした。そんな気分だったからだ。

    不思議なことが起こった。

    今まで、自分の姿を想像すると、なんか灰色イメージだった。いつも人に見られないようにこそこそしているイメージ。人と顔を合わせないイメージ。

    ところが赤毛の坊主にしたら、自分を想像したとき、カラーで思い浮かぶようになった。キラキラして色白で、いつもにこにこしていて、活発で近寄りやすい車椅子の女性が思い浮かぶようになった。


    鏡で見る自分より、想像する自分がすごくいい感じ。鏡を見たら、あれ、やっぱりそんなにきれいじゃないや、と気づく。でも落ち込んだりしない。鏡を見たからって、想像の姿のグレードが下がらない。自分の姿はいつも見えなから、自分はきらきらしているんだ、と思って街を動き回るようになった。

    不思議だ。中身が変わったから赤毛の坊主にしたくなったのか、赤毛の坊主にしたから中身が変わってきたのかわからない。

    でも、地味な性格を変えたくて…みたいなところを人に見せたくない、という屈折した考えがあって、素直になれなかったが、こういう姿にしたい、という願望に素直に従うことはとてもいいことだと実感した。


    髪を切ってくれたのは、町田のLUMの店長。LUMは、わたしにとっては最高の店。


    https://minority-inc.com/lum/


    居心地のいい場所が自宅以外にほとんどない私の、珍しく癒される場所。

    LUMでかかっている音楽は私好みの癒し系女性ボーカルが多い。髪を洗うスペースは暗くなっていて、壁にいつも変わった映画を映している。そこは別の音楽が不快でない感じで重ねて流れている。不思議な感じ。頑張っていないのに普通にアートな空気が流れる。

    店長は穏やかさの極致で、にこにことただ嬉しそうにお客さんと話し、好きなように切ってくださいというと嬉しそうに、遠慮なく、本当に好きなように切ってくれる。その嬉しそうな姿が見たいので、店長にはなるべく注文しない。

    切っている間、アフリカ人とおなじように裸になって、アフリカをかっこよく写す女性カメラマンのこととか、マイケルジャクソンが東欧が民主化したときの最初のライブ、バタバタ倒れるやつとかおしえてもらったり、音楽とかのことも教えてくれる。私もいろいろ語ってしまう。

    この店長、昔はコンビニ弁当ばかり食べて倒れたことがあるらしいが、今は美人の妻と子供を養い、アートでアースでローカルでおしゃれなお店とのコラボをしながら、なんか地場産業・とか地産地消とか、よくわからないが、そんな、安定の人生に踏み出したようなふりをしている。というか自分でもそうだと思い込んでいる。

    でも、もしかしたら、突然にこにこ笑いながら、どこかに放浪の旅に出て帰ってこないんじゃないだろうか、とひそかに想像したくなってしまうような男だ。

    赤毛の坊主にしに来たと言ったら、店長は、「なかなか、坊主のオーダーはないですね。楽しいです。」と言って、意気揚々と、あっという間に赤毛の坊主にしてくれた。

    ただ、店長流に、こめかみの毛の束を白のグラデーションで脱色してある。

    鏡にうつった店長と二人で記念撮影した



  • 天の怒り? 天変地異
    台風19号が接近している。最大級の台風に、ホームセンターもヨーカドーも長蛇の列だ。

    ドンが、「なんか、やばいよな。」といった。つまり、気象がおかしいということ。

    ドンはいろいろなことをあまり心配しない。私が心配しているときはいつも合理的理由で一刀両断される。だが、ドンが「やばい」というときはたいていやばいので、私もやっぱりやばいのかと思った。

    天が怒っている?

    私たちは今、安全な家の中で、テレビを見ながら、平和なバラエティー番組の合間に、気象衛星からの映像を見ることができるので、台風に対しても上から目線である。「君が来るのを知っているよ」、「君が何でできているのかも知っているよ」って具合だ。だが、本当に台風について、私たちはわかっているんだろうか。

    映像がない時代の人は台風を天の怒りだと感じていただろう。台風は上から見られるようになりました。だから天の怒りではありませんといえるのだろうか。

    私たちが作ったわけでもない人間は、他に類を見ない頭脳を持っていて、宇宙へも飛び出し、さらに、頭脳をもってしても説明できない直感などの能力を使って、なにか「やばい。」ものを感じたりする。

    最近、「やばい。」を敏感に感じ取った、スウェーデンの高校生環境活動家グレタ・トゥンベリさんに対する批判をネット上で目にするようになった。

    その心理はわかる。私も最初、睨みつけるような目で、「私たちは、あなた方を許さない。」と牙をむく彼女の演説を見た時は、「なんで、あなたにそこまで批判されなくてはいけないの?」という不快感を感じた。つまり、責められているのが自分であるような気になったわけだ。

    責められたので、あなただってこの便利を享受している、世界に守られている一人の子供にすぎないでしょうに。と言いたくなった。

    でもよく考えると、私が子供の頃、こんなに資源は無駄にされていなかった。さらに、江戸時代になると全てのものはリサイクルされ、自然とうまく調和していた。本当にこの100年ぐらいの間に沢山の資源を食い尽くしていることを考えると、彼女達子供は確かに被害者であり、攻撃されている加害者は現代の大人なのだ。

    昔、「やばい」と感じ、フランスを救おうとしたジャンヌダルクは、狂信者として火あぶりにされた。軌道を変えようとする先駆者はいつも苦難の道を歩む。

    もう一人、「やばい」を早くから感じて環境破壊を止めようとして、志半ばに力尽きて亡くなったビッグアーティストを思い出した。

    マイケルジャクソンだ。

    2007年、彼はロンドンでファイナルツアーの直前に突然亡くなった。ツアーで一番のメインは「アースソング」。これは突然マイケルに下りてきた曲だったという。彼は自然破壊によって、自分の後の世代が受ける苦難を心から危惧していた。

    彼はファイナルツアーで「アースソング」を以下のように演出する予定だった。
    ※幻のファイナルツアー前の3か月のリハーサルを追ったドキュメント「this is IT」より

    舞台背景のスクリーンには愛らしいの少女が出てきて、花畑の中で眠りにつく。場面は変わり、森はブルドーザーに破壊され、一面の焼け野原になる。少女は眠りから覚め、緑の植物を守ろうとして、振り返ると目の前に巨大なブルドーザー。そして舞台は炎に包まれ、スクリーンからブルドーザーが飛びだしてくる。「これは、決してハッピーエンドじゃない。(マイケル)」

    随所にマイケルのコメントが流れる。

    自然は必死になっている。人間の不始末を埋め合わせようと。
    地球は病んでいて、熱があるんだ。今でなければもう治せない。
    今が最後のチャンスなんだ。
    僕らは暴走列車。
    今こそその時
    みんながこう言う。
    ”誰かがやってくれる”と
    誰かって?
    僕らから始めよう。
    でないとなしえない。

    そして、リハーサルの終わりに、本番を控えたメンバー全員が輪になって手をつないだなかで、マイケルが皆に伝えたメッセージ。

    皆愛している。
    僕らはファミリーだ。
    世界に愛を取り戻そう。
    愛の大切さを思い出させるんだ。
    互いを愛すること。僕らは一つだ。
    そして地球を大切に。
    4年で環境破壊を止めて地球を守ろう。
    ぼくらが伝えるのは大切なメッセージだ。
    みんなの協力に感謝します。

    そして、そのあと、本番目前にして、彼は力尽きてしまった。
    10年以上前の話だ。



    ところで、この1か月ぐらい前から朝の1時間お掃除を始めた。89歳のお年寄りを手伝おうとしたのがきっかけだったが、今までボランティアで掃除なんて、定年して暇にならなければやらないと固く思っていたし、人目が恥ずかしかったが、勇気を出してやってみると一日で慣れてしまった。

    サルが一匹、芋を払い始めて、長い年月の間に、少しずつ芋を洗うサルが増えていき、ある割合まで増えると、あっという間に世界中のサルが芋を洗うようになるという話を聞いたことがある。

    私がボランティアで掃除を始める段階は、もう、世界中の人が環境破壊について行動を始めるちょっと前の段階のような気がする。

    だから、希望は目の前にある。
  • 原子力発電と太陽光発電
    味の素スタジアムに「日本の音色」のチラシを置いてもらおうと一人でスタジアムに車で乗り込む…つもりだった。

    入口がどこかさえ分からない巨大な建物の周りを車でぐるぐる回り、入口らしきところに入ろうとしたら警備員さんに、電話でアポしないとと入れません。と言われる。テロへの警戒などもあるし、ラグビーワールドカップが始まってしまえば競技場は、入場券でも持っていなければ中に入れなくなるんだと実感した。

    プールのある方の武蔵野スポーツセンターの方に入り、どこかつながっていないだろうかと物色してみて結局、どうしても味の素スタジアムにアクセスできず、あきらめて帰る前にぶらりと、屋上によってみる。



    最近肌寒くなり、夏の暑さはすっかり薄らいでいる日中だが、屋上は全く日を遮るものもなく、全身にストーブを浴びているような暑さだった。調布の街が一望できた。暑い中、奥の方まで突っ切ってみると、ソーラーパネルが並んでいた。



    建物の電力をソーラーで発電しているようだ。

    焼死にそうな暑さの中、これのエネルギーを利用しない手はないよなあと思う。

    日本人は世界で唯一、原子爆弾を落とされているのに、なぜ原発にこんなに頼ってしまったのだろうと思う。このたった一人に浴びる太陽の恐ろしいほどのエネルギー。これを、真剣に研究していれば、今頃はもしかしたら、石油など必要なくなっていたかもしれない。日本の技術力でできないはずはないよね?

    私が学生時代、原発は平和利用のシンボルで、同じエネルキーを→核兵器となれば悪、→原子力発電となれば、善だと学んだ。危険なイメージはなく、クリーンで平和なイメージしかなかった。

    でも、一度分裂し始めたら、人間の力で止めることができないエネルギーって、悪じゃないの?

    今は世界中の知恵があっという間に集結できる時代だ。この、惜しげもなく与えられている太陽というエネルギーを生かして、皆が平和に、資源を奪い合うことなく、便利に生きてゆけるような世界になりますように。
  • 好きな人 嫌いな人 意味
    気になってたまらない相手というのがいる。

    それは好きだからという場合と、嫌いだからだという場合がある。そういった二つのタイプの相手が、自分にとってどういう意味を持っているかということについて、”ピン” とくる説明を聞いた。

    好きな人についてはネットですごくアクセスがあるヒーラーの動画で聞き、そして、嫌いな人については自己啓発本から読んだ。

    気になってたまらない人というのは、好きであれ、嫌いであれ、ほとんど通り過ぎてゆく、自分を取り囲んでいる沢山の人の中で特別な存在である。その人のことを考えると幸せになるか不幸になるかの違いで、気になるということに違いはない。

    こういう相手は自分の中の何を教えてくれているのか。

    嫌いな人について。これは、自分の中にあり、自分でそれを嫌悪し許せないと思っている一面を持っている人だとのこと。

    好きな人について。これは、自分の中にあるけれど、まだ花開いていない一面を花開かせている人だという。

    どちらにしても、私は納得できるし、希望を持てる説明だ。

    自分が変わっていけば、周囲も変わるという。好きな人も嫌いな人も変わってゆく。それは相手が変わったのではなく、自分の世界が変わったということ。

    好きな人・嫌いな人について説明したのが誰なのか、正確にはちょっとわからくなってしまった。今世の中は権利がうるさい。誰が言った言葉なのか、ちゃんとここに書かなくてはならないのかもしれない。

    けれども、この沢山の情報の洪水の中で、時々自分にぐっとヒットする言葉。これは、結局自分の中にあり、自分が知っているものにぶつかっただけではないかと思う。

    いかにもよさそうな自己啓発の本などある。読んでみるとちょっと元気はでても、ちっとも心に残らない。言っていることは正しいのかもしれないけれど、自分の経験から実感できなければ結局は通り過ぎていくだけの言葉たち。

    宗教など、人はそれぞれ自分がいいと反応したものを信じている。これも結局は自分の持っている花開いていない一面を花開かせてくれるものに反応し、選んでいるのではないかと思う。

    結局世界の中心は自分。宗教戦争というものがあるが、宗教の教えを守るため、自分を捨てて戦っているように見えて、実は自分の知っている世界が一番だという考えから戦っているのであって、本当は大義名分などないのかもしれない。
  • オリンピックを利用する?調布を利用する?
    胡弓の木場先生にコンサートのことを話したとき、言われた言葉に胸が痛んだ。
    「結局コンサートにいそがしくてオリンピックは見られないかもね。」といわれたとき、私は
    「スポーツはあまり興味ないんですよ。」といった。すると
    「それは口に出さないほうがいいよ。オリンピックを利用しているだけだと思われるよ。パラリンピックじゃダメだったの?人の支持は得られるよ。」

    言われてみれば、車いすの私がパラリンピックを音楽で応援するという図は話題になるに違いない。そんなことは全く考えていなかった。車いすバスケも1年程でリタイヤした私である。

    自分はオリンピックを利用しているのかもしれない。ただ、それがパラリンピックであれば、それは私の心が全くそちらに向けて動いていなかっただけにさらに利用したことになる。

    動機が問題。動機が心を動かす。それは自分の心もそう。周囲の心もそう。行動が無私で純粋であるかどうかが、行うもの、それを支援するもの、すべてのエネルギーになる。

    中学校の時から無気力だった。悩む気力もなかった。無為に生きてきた。その私を動かしているのは「オリンピック」と「調布」というキーワード。

    調布は私が18の時から、劇団に入ったり、住んだりしながらずっと一人で生きてきた場所。けがをしたときは、福祉で家族よりお世話になった場所だ。恩返しなんて偽善はない。ただ、調布でやりたかった。

    30年住んだ調布にこだわること、オリンピックにこだわること、それは確かに何かを利用することに口実をつけることかもしれない。

    でも、そのキーワードのお蔭で、まず、この自分の心が動いている。

    オリンピックは私だけでなく、日本人一人一人がなにかのチャンスにできるはず。

    自分の「時」にうまく合えば、であるが。いまでも震災の後遺症に苦しむ人もいる。でも、それでもオリンピックで希望をもちなおすことができるかもしれない。

    それは、スポーツで勝つことかもしれない、英会話を試すことであるかもしれない、ものを売ってお金を得るチャンスかもしれない、自分の商売を世界に売り込むことであるかもしれない、日本の素晴らしさを世界に見せることであるかもしれない。

    わたしもスポーツはできないけれど、オリンピックに音楽で参加するのだ。大きな目で見ると小さな成功、そして自分の中での100パーセントの大成功を目指したい。
  • もらえるものはもらわないと損か

    今日は朝から、やっと届いた離職票を前に、さて、失業保険ももらえるが一年どうしようということがしきりに頭をよぎっていた。

    受けた会社は4件落ち、この間面接官の訪問を受けた在宅の仕事は、受かっても12月からということで、一時保留する。落ちた理由はおそらく、短時間、週4日、音楽活動をしながら、という隠してもにじみ出る、プライベート優先の発言の印象が悪いのではないかと思う。

    必死に就職活動をしなくても、3か月待つと失業保険がまた受けられる。そうするとコンサートにすべてのエネルギーを注げるぞ。という声が聞こえる。すると、またきりきりと胸が痛む。

    やめた会社の前に、失業保険と職業訓練で2年暮らした私だった。その頃はハローワークに行くことが憂鬱で仕方がなかった。本当に真剣に仕事を探す気がなかったからだ。

    会場がとれた今日、なにか神の手を感じた。「やってみなさい。私がバックアップしている。」

    この手を離さないためにも自分が嫌になることはやめようと思った。もともと企画自体が無鉄砲で、今までの悧巧な頭よりも、本当の心の声を聴こうということから始まっていた。

    損得抜きに自分を試そう。仕事もやろう。たとえパートで安い金額でも。自分の心の為に。