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だから、私はコンサートをすることにした。

2019年、7月、会社を辞め、オリンピック開会式前日の2020年7月23日、調布グリーンホール。 オリンピック閉会式翌日の2020年8月10日調布たづくりホール確保した。 そして2020年3月24日オリンピック延期。新型ウィルスによる集会禁止。 一生に一度の地元のオリンピックで、外国から来た方に日本の音色でおもてなしをするという企画が、未曽有の事態によって、違う方向へ。 いつも最悪に見える人生のタイミング。運命は自分にいったい何を教えようとしているのか。 たった一人の音楽パートナードンとドンキホーテのように無鉄砲な企画に立ち向かう名もなき車いす。空を飛べるか。

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  • しんちゃん、『練習に行きたい!』
    柳どんと、しんちゃんのパソコンを使った太鼓演奏について、しんちゃん宅に言って相談する。前向きに本間先生へ頼んでソフトの改良をしてもらい、特製のしんちゃん太鼓をつくってくれている、ヘルパーの鶴岡さんとも、お宅で落ちあう。

    久しぶりにお宅に行くと、外で消毒し、中で消毒と手洗い・うがいをしてしんちゃんに会うことになった。入院先では安心、安全でお母さんはお見舞いに行くだけでいいが、家にいる時は何人ものヘルパーさんがこうやって消毒して、入れ替わり立ち代わりやってきて、しんちゃんをバトンリレーで支えている。

    鶴岡さんは秘密兵器を沢山用意してくれ、決定的な瞬間を撮影することができた。



    しんちゃんの家は住宅地なので、笛の音を気を付けようといっていたのに、だんだん乗ってきて音が大きい。しんちゃん相手だと、柳どんは乗ってしまうのだ。

    私は来るときに、この状況で菌に弱いしんちゃんが出演することは難しいのは当然だし、また四季と一緒にやれる機会は作ればあるわけだから、今日決めようと思っていた。しんちゃん父さんも母さんも、どちらかというと心配な感じが伝わってくる。しんちゃんを支えているのはご両親なので、そのことが第一だと考えていた。

    でも柳どんは、『いや。今決めなくてもいい。』と言った。たぶん、しんちゃんの様子を見て、柳どんはやめる、とは言えなかったのだろう。きっと本質を見ているのだと思う。

    一方、私は、自分の考えだけで、周りの迷惑になることを押して、から回りしながら頑張ってはいけないというようなことを考えていた。でも、しんちゃんを見ていると、すべて、いろいろ頭を悩ませることがバカみたいな気がしてきた。

    ただ、楽しめばいいんだ。今度のコンサートだって、こんな厳しい状況だけど、いいものをつくらなくては、情けないことにならないように頑張らなければ、ということでひたすらテンションを下げ続けていた。

    でも、しんちゃんのように、ただ楽しんでいる姿は、それだけで感動的なのだ。

    この際、ちゃんと叩けなくてもいいから、8月はしんちゃんが、出かけて舞台に乗れることを願うのみだ。
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  • 練習再開!幸門の会
    『今日は、合わせて10人は集まるよ。すごいだろう。』
    日曜日の朝、柳どんから電話があった。コロナ自粛以来、初めて笛の会の弟子たちが集まる。最近、力あるため息ばかりついていたが、久々に嬉しそうな声だ。
    『今日は弟子のゆりこさんが誕生日だ。いつもお世話になってるからケーキを買っていく。』

    この3月からの稽古のお誘い、『日本の音色』の参加者募集と、コロナ中でも変わらずのペースでお弟子さんにメールを送り続けていたが、なかなか反応はなく、5月に2回取っていた稽古場も、我々2人しかいなかった。YouTube用の動画を撮ったりしてやり過ごしながら、二人ともコンサートの話もあまりしなかった。しかし、やっと、昨日あたりから『結構やる気のあるメンバーが増えてきた。』と言っていたっけ。



    小さい8号棟集会室は、3密に近い状況になり、部屋のサッシを開け放つことになった。
    オリンピック音頭と、かごめ、こきりこ、さくら元禄を練習した。

    柳どんは教えることが好きなので、久々に生き生きとしていた。参加する皆も、久し振りに笛を吹くのが楽しそうなのが伝わってくる。

    そして、ゆりこさんの誕生日ケーキでお茶する。87歳とのこと。コロナで女優の仕事も15件ぐらいキャンセルになったといっている。やなぎどんのケーキにうるっときていた。昨年バルトホールでの小泉八雲の怪談の朗読、そして時計台ホールの『はっぱのフレディー』と、私と柳どんは全力でゆりこさんのバックに回り、一緒に作品を作り上げた。



    コロナで皆、不安の中でイベントどころじゃないなかでも、ゆりこさんから『直子さん、私は全面的に協力します。』『●●の館長は知り合いだから何かあったら頼んでみますから言ってください。』とか、ずっと気にして声をかけてくれていたっけ。



    『いつになっても誕生日を祝ってもらうのは嬉しいわ。』
    とゆりこさんは言った。
    柳どんの会はいつもほのぼのして楽しいな。

    ★ふしみんがとってくれた練習風景
    https://www.facebook.com/100042861793092/videos/pcb.260030188769039/260030018769056
  • 記念すべき日(民謡歌手渡辺さん・八丈太鼓奥山さん参加決定)
    今日は大変な一日だった。

    プロの出演者が二人決定した。

    八丈太鼓の第一人者、奥山さんとビクターの民謡歌手、渡辺さんが出演を快諾してくれた。

    この二人にお願いするに当たっては長い苦労の道のりがあった。二人とも企画した最初から念頭にあった。渡辺さんに関しては、2019/07/10クラウン歌手Wさんに再会に書いたものの、実は後日談がいろいろある。

    尊敬する渡辺氏をなんとか出演に持っていくため、2時間以上かけて、何度も所沢まで通った。しかし、私のような、なかなか人馴れしない人間にとって、その場所はかなり居心地が悪く、距離の遠さも相まって行くのが精神的に困難になり、ちょうど、弟子に車をぶつけられて車がへこむという事件をいい幸いに行くのをやめてしまった。

    数日後、先生の民謡を聴きに行き、手紙を渡した。

    「ちょっと遠すぎて、通うのは困難になりました。本当は先生にコンサートに出てもらおうと思ったんですが、ちょっと今の状況では、先生の出番も少なく、お客さんを呼べるかも自信がないので。」

    そう、いつものみじめなへたれ体験。

    そして今日、相変わらずお客さんが来るかどうか全く分からないが、先生に2曲歌ってもらうようにプログラムを調整できたところで、緊張しながら電話した。

    「歌ってもらえませんか。」

    「構いませんよ。やりますよ。謝礼?気にしないでください。電車で行きますよ。日本を代表する民謡?南部牛追い歌なんかどうだろう。」

    飛び上がらんばかりだ。南部牛追い歌。岩手の代表的な竹もの(尺八伴奏の曲)の民謡。この曲は渡辺先生のちょっと狂気が入ったような歌にぴったりだ。そして、オープニングのこきりこを渡辺先生が歌ったらどんなに格が上がるだろう。倒れて7年間のリハビリを経て、それでもその歌の中の狂気は健在だ。

    そして、うまくいった勢いで電話した八丈太鼓の奥山さん。

    これも、私のさらにすごいへたれ体験を経ての決定だ。

    八丈太鼓は最初から胡弓の木場先生とともに、プログラムを飾る出し物として、考えていた。私の知る限り、奥山さんは八丈太鼓の最高のプレーヤーだ。即興を基本にする八丈太鼓自体が好きだが、沢山の演奏者の中、奥山さんは抜きんでている。

    https://www.facebook.com/yoshio.okuyama.56
    ※ユーチューブで沢山演奏が聴けます。

    その奥山さんのイベントに参加してみたりして、周りで衛星のようにうろうろした過去はあるが、結局一度もまともに話しかけたことがない。24時間八丈太鼓に友人と行こうと話し、飛行機チケットまで買ったが、台風で流れ、その後その友人は亡くなった。車椅子の私と八丈に太鼓を叩きに行こうと言ってくれる人はいなくなった。

    最後のチャンスかもと思い、今年8月に24時間八丈太鼓のプレイベントに奥山さんが東京に出てきていたので、はるか江古田まで出掛けた。あわよくば、イベント中に勇気を出して奥山さんにいざ交渉だ!それは、渡辺先生に手紙を渡して逃げてきた帰りだった。時間には間に合わず、2次会の時間を目指して到着。

    ところが会場は地下だった。どこからか、笑い声やもり上がる声がする。八丈太鼓の常で、酒を飲み、盛り上がりながら叩いているに違いない。

    目の前にある警察に、「地下にいきたいんですけど、ちょっと中の人を呼んでもらえますか?」と言ったら、気の毒そうに「我々が行くと驚かれるんですよねえ。」と言われた。本当に行きたければそれでもお願いしたところだが、救いを求めて電話した荒井さんは、今日は参加しておらず空港にいたことから、このライブ会場に入る勇気もなく、結局すごすご帰ってきた。

    同じ日に二人のプロを誘えなかったへたれDAYだった。

    そんなへたれの私だったが、この数日、なんとかプログラムを決定しなければという焦りで四苦八苦していた。自分の歌をしみじみ聞いてみたり、木場先生の言う「お金をとってコンサートをするということがどういうことだかわかりますか?」という声やドンの「基本的にやりたくない奴は誘わなくていいんだ。」とかいろいろな声が聞こえていた。

    琴のメンバーの一人が「できないからやめる!」と言いだしたため、プレッシャーを減らすべく、琴木星の参加は、予定の2公演から、1公演に減らすことにした。

    お金はかかりそうだがやはり、どうしてもプロの助けは必要なことが分かってきていた。

    八丈からの交通費や滞在費がかかろうと、どうしても奥山さんがいい、とドンに言うと、「そこまで腹くくっているなら、頼んだら?八丈はいいと思うよ。」と言われ、その一言で、いろいろな心配を乗り越えて、まずは、既に出演を約束している青ヶ島太鼓の荒井さんの紹介してもらい、連絡してもらった。そして、こそこそ見ていたフェイスブックの奥山さんに、初めて勇気を出して友達申請をした。

    数時間後、申請承認の通知が来た。ドキドキする。

    すぐ自己紹介をした。返事は…

    「7月23日は、予定を入れました。8月10日は、他に予定があります。」

    ん?

    「入れた予定というのは、私のお願いしている件の方ですか。」

    「そうです。」

    どひょーん!!なんと、私が考えていた半分の謝礼で引き受けてくれた。

    「私、結構人のこと、覚えないですが、あなたのことはおぼえていますよ。」

    私がイベントで周囲をうろうろしていたのを覚えていたんだ。車椅子というのは居心地がわるいときも多いが、こういう利点もある。

    へたれ体験も、最後に成功すればへたれではない。こうやってブログに書けるときには勝利している。

    というわけで、いま進行中のへたれ体験については、まだまだ語りませんよ。

  • 涙の説得ーK先生
    1週間前、小波会のK先生に、 「コンサートに出るかどうか、来年のことなので自信がない。迷惑をかけてはいけないので、来週水曜日に参加するかどうか返事をする。」と言われる。

    コンサートの演目の中で、越中おわら節と磯原節を歌いたいので、K先生に三味線をつけてもらうことを最初から頼んでおり、当然出演してくれるものと思っていた。だが、K先生が明らかに私が一人で立ち回るこのコンサートをよく思っていないことが感じられた。

    しかし、K先生抜きではありえないコンサートである。



    K先生。現在89歳。 先生の過去の苦労話については話せば長くなるので端折るが、奥さんの介護を20年したことだけ記しておく。

    私のすべての音楽活動は、先生の導きであった。民謡を一年やったのもK先生の誘いで、何度も舞台に上げてもらった。琴を何十年ぶりに再開したのもK先生に誘われたからだ。稽古場をとるにしても、いろいろなライブをやるにしても、K先生と一緒、または、K先生に手助けしてもらってきた。自分が何か演奏するときは必ず見に来てくれ、お客さんを呼んでくれた。

    そういった奉仕は私だけでなく、音楽好きで、いろいろな会を主催してきたK先生の周りの人は皆、その恩恵を受けており、皆が先生を頼り、先生がいつまでも元気でいてくれなければ、今の会は続かないと危惧していた。だから先生はこの数年の間に、ほとんどの会の会の主宰を降り、会員の中で後釜を決め、引き継いだうえで、自分は相談役のような立場になり、しかし、今まで通り企画・運営・設営から後片付けまで中心になってやっている。



    先生は、いつも次の新しい趣向を考えていて、どうやったら和楽器同士でうまくコラボレーションできるか、もっと聞いている人が楽しめるようにするにはどうしたらいいか、考え、辛抱強く取り組んでいる。そして団地や老人ホームなどのいろいろなイベントに三味線を持ち仲間を連れてボランティアで演奏して回っている。

    また、この年齢にして、地域福祉にも大変な貢献をしており、団地の会長を3年やり、団地の会計の不正などの問題も穏便に解決し、任期終わった今も、頼まれれば人の電球をとり替えにいき、争いごとの仲裁も、ゴミや掃除の担当もする。今は団地の連合会の役員もしている。集会場に関するあらゆる雑務を引き受け、電話一つで借りられるよう改革し、朝は一人で団地の草むしりをし、学校の交通整理もする。マスコミに出て有名になるような人生とは縁遠いが、地域の中で頼られ、なくてはならない存在になっている。

    とにかくスーパー後期高齢者なのだ。

    私は、今回のコンサートについて、もう一度先生の立場から考え直した。

    なかなかはかどらず、停滞してしまっているとき、ふと、思いついて越中おわらを生で聞こうと、富山の風の盆前夜祭に夜行バスで行った。

    そこで偶然にも行われていた越中おわら節のど自慢大会というのに参加し、歌半ばで鐘ひとつ鳴らされた。

    惜しくもない敗退だった。風邪はひいていたが、音は外れていたし一息で歌っておらず、ただ楽しんで歌っただけのこと。


    風の盆はすばらしく、私はそこに長く住み、同じ伝統の踊りや歌を飽きもせずに繰り返し練習し受け継いでいる人々を見、ああ、この歌は私は歌うべきではないと、実感したのだった。



    家に帰った私は、プランを練り直し、出演者はK先生の名前でなく会の名前にし、唄はTさんにお願いし、私は胡弓に専念することにした。10分以上を先生の会に確保し、その他、他の演目にも沢山エントリーし、出番を増やした。

    そして、ほとんどできていないMCの台本の中に、K先生の紹介部分を入れた。それをパソコンで打ち出しながら、いろいろなことを思い出して、また、私が企画したコンサートでインタビューを受ける先生を想像して、涙がぼろぼろでた。

    「三味線はK。長年調布でボランティアであらゆる福祉施設で演奏を続けてきました。御年90歳になります。インタビューにお答えください。」

    そして、ついに本日水曜日。

    午前は稽古場をとっていたので、先生に「話をしたいのですが、今がいいですか。それとも昼からでもいいですか。」と聞いたところ、 「いや、2~3分で話は終わるよ。」
    やはりの、不参加表明。

    それからの話し合い。私は必死で「先生のお気持ちを考えて練り直しました。」と打ち込んだばかりのプログラムを見せる。

    自分の歌では越中おわらは無理だと自覚したこと。会の普段の形態を崩さず、自分たちの音楽に専心してもらえるようにすることをひたすら説明した。

    そして、おもてなしの権化であるK先生を舞台で紹介したいこと、K先生抜きでコンサートはあり得ないこと、まさに涙の説得だった。

    最後はK先生、手を差し出して 「会のことを考えてくれてありがとう。やります。今から皆に伝えてくる。」 と握手。

    先生は決めたらすぐに動く。
  • おもてなしコンサート しんちゃんの反応
    先日久しぶりにGAKUDAN四季の練習にしんちゃんを、おかあさんが連れてきた。
    しんちゃんに「コンサート一緒に出ようね」と言ったら笑顔で目を輝かせている。

    お母さんは病気になって以来、十年以上続けてきた四季をしんちゃんと二人、休会しているが四季の稽古場を毎月二回確保してお金を払いに行くという、一番大変な作業を続けてくれている。

    マンネリが続き、府中の芸術文化祭からも追い出され、出るイベントも数少なくなった私たちのサークルに、休会しても奉仕を続けてくれるのはなぜか。それはしんちゃんが朝から何度も何度も、四季やドンの映像を繰り返してみるほどに四季が好きだからだ。

    今度のコンサートにしんちゃんが何か楽器で参加できないものかとしんちゃん母さんに行ったところ、しんちゃん母さん「いい人がいるのよ、今度はなすね。」 そしてDVDを持ってきた。

    https://youtu.be/GPKavugNz_A

    このドキュメントにでてくるお医者さんが、知り合いで、しんちゃんに力を貸したがっているという。

    このところ、しんちゃんは声が出せないはずなのに、息遣いで会う人会う人にコンサートに出ることを話すそうだ。やっぱり演奏したかったんだということがわかると、目頭が熱くなる。同時に、これはいい加減にはできないと思うのだ。
  • 胡弓:木場先生に出てもらいたい。

    わたしがいまのところ、おもてなしコンサートにでてほしい、二人のプロのなかの一人、胡弓で世界に羽ばたく先生の巣鴨の稽古が本日あった。

    木場大輔先生だ。

    http://yuzuruha.net/

    胡弓という最古にして、すたれた楽器に息を吹き込み、海外にはばたく音楽家だ。私は胡弓を習い始めておそらく6年ぐらいたつかもしれないが、月に1回のレッスンをトータル2年ほど休んでいる。先生は大阪に在住で、ひと月に一度東京にきて東京衣擦れ会の個人レッスンを行っている。
      
    1年の休会から復帰して2回目である今日。木場先生は突然言った。
    「東京に移り住むことになりました。」

    ああ、ここにも神の手が働いている。交通費とギャラが払えれば、先生に堂々とお願いすることができる。なにせ、すごいのだ。彼は。たぶん日本一のそして、唯一の胡弓弾きだ。

  • クラウン歌手Wさんに再会

    1年後コンサートで歌を歌うことを考え、心の師の所を訪ねた。

    クラウン歌手のW氏。2001年年ぐらいに障害者訓練校の時、視覚障害者の民謡サークルに参加して、ほんの少し交流があった。
    10年後に所沢まで訪ね、ほんの少しの間、歌のサークルに参加し、2011年5月末のうちの団地の火事の混乱で行かなくなってから、さらに8年経過し、また歌を習おうと訪ねた。
    ちなみに、W氏は私がそこにいた時を含め、20年の障碍校の視覚障碍者へ民謡を教え続けたことの功労で表彰されている。

    おそらく80ぐらいのお年ではないかと思っているので、電話をかけることを躊躇した。
    しかし、名刺の電話は変わっておらず、「覚えてますか?」「ああ、覚えていますよ。ありがとうございます。」
    声は相変わらず張りがあって、力強く、ただ少し入れ歯なのか思われる舌が回らない感じがあった。歌手であり、地元の名士であるが、腰が低く、明るく、礼儀正しい、私に言わせると神的な人だ。
     
    待ち合わせの所沢と新所沢を間違え、結局、教え子の車で新所沢まで迎えてくださった。
    相変わらず若々しいがかなりやせてしまっている。聞くと、脳梗塞で倒れて、7年間のリハビリをしたとのこと。

    おそらく気持ち負けるような方ではないので、会わなかった8年、力強く歩んだのだと思う。けいこ場で弟子たちに激を飛ばし、誰よりもいい声で歌う姿は全く変わりなかった。正直倒れる前と比べれば、声量と音程の正確さが少し落ちているような気がするが、脳溢血の後遺症で右手を下にぶら下げた状態の人の声ではない。

    稽古場には以前同様、たくさんの尺八を持った尺八担当と、太鼓担当と、三味線弾きが3人そろって稽古にきていて、やりたいという歌をすぐに伴奏つけてくれる。楽譜もみていない。歌っている人たちも8月の大会に向けて練習しているが皆レベルが高い。別世界なのにみんなにこにこと新参者を受け入れてくれる。グループの空気というのはそこにいるリーダーが作るものだ。

    W氏が「お歌いなさい。」といったので、歌わせてもらった。磯原節だった。
    自己流の歌い方で、k先生には「本当はあんなふうに歌うものではない。」と言われていた唄だ。

    「うまい!!」8年前と同じの絶賛だった。「すごくうまい人が7年みっちりやった歌だ。この人は何を歌っても上手いはずだ。」

    W氏に言われたら、私は本物だと思う。W氏が本物だからだ。W氏の歌は、魂が入っていてなにか狂気のようなものさえ感じてしまう。だから、二時間半もかけて所沢まで来たのだ。

    私は褒めてもらった興奮冷めやらぬ気持ちで、オリンピックのコンサートのためにグリーンホールをとったこと、そのために一年間歌を練習したいことを話した。「こんな歌い方で、1300のホールで大丈夫ですか。」「ええ。素晴らしいよ。」

    私は、そのことよりも、なんとかW氏にもコンサートで歌ってもらいたいと思い、何を歌ってもらうべきか考え始めた。

  • Aちゃんに紙芝居をやってもらいたい
    いつか自分のコンサートを開くなら声をかけようと思っていた人がいる。Aちゃんだ。

    何故かちょうど、この間のお葬式でそのお兄さんに再会し、妹はどうしているか聞いた。最近中国に行った彼も帰ってきたし、元気でいると。

    メールしたが返事がない。電話番号を兄に聞いて電話した。出た。
    「はい。まあ!なにかご用でしょうか。」
    ああ、そうだ。こんなハイトーンヴォイスだったなあ。と思いだす。5年ぐらいである。

    「お茶でもしましょう。」
    なんと、今日は気分もいいからと、15分後には私の最寄駅まで来てくれた。

    デニーズでドリンクバーと、何か甘いものをご馳走しようと思った。もじもじと希望が決まらないので、特に食べたくもなかったが、自分が先にこのパフェをお願いと、マンゴパフェを頼んだら、「タワーパフェですね。」と店員が言う。よく見ると値段が1200円以上。「うわ。高え。」大きくつぶやいてしまった。気を大きく持とうとしても失業者である。
    結局普通のパフェにした。その勢いでAちゃんは一番安そうな小さなパフェを頼んだ。

    そうやって気を使いあう私とAちゃんなのだ。

    Aちゃんは発達障害ということだが、あっていないこの5年はひきこもり、ついこの2か月前ぐらいから、薬があってきたようで、調子がよく、キャドの学校などに通い始めた。

    お母さんはかなり活動的な紙芝居作家で、切り絵の素晴らしい紙芝居を作って、紙芝居の団体を主宰していたが父親とともに続けてなくなり、Aちゃんが落ち込んだ原因にもなった。

    Aちゃんの5年は止まっていたようで、自分では白髪が増えたといっているがまったく5年前のままで、相変わらず知的でおしとやかだが、中身の子供っぽさが消えないひとだ。

    「リンゴ追分に紙芝居をつけたいんだよ。昔話したことがあると思うけど。」

    最初はそうでもなかったが、しばらく話を聞いているうちに、「なんだかおもしろそうですね。」と目を輝かせた。5年間ひきこもっていた時を飛び越えて、5年前に相談した時にもどっているようだ。

    「あってもなくてもいい。一年あるから。チラシにも載せないから考えて。あとで私が歌ったリンゴ追分、アドレス送るよ。」

    そのあと彼女が世話になった民謡のK先生のところの連れて行った。今度のコンサートで活躍してもらう予定の87歳。現役バリバリの三味線ひきだ。

    先生は喜んではじけながら、昔のようにいろいろの軽口をたたきながら、本当嬉しそう。いつ、お琴サークルにもどってくるの?」

    そして、Aちゃん笑顔で帰って行った。いろいろ不安の中で生き続けている。期待しないで、でも紙芝居をつくって、そして演じる気持ちになってほしい。

    1300のホールに大きなスクリーンでフミちゃんのオリジナルの紙芝居がうつっている場面を想像している。



  • しんちゃんにも出てもらおう

    15年ぐらい四季にいる福山型筋ジストロフィーのしんちゃん。
    写真集が3冊出版されている。

     
     
    お母さんも本人も調子がいいことが最近ないのでGAKUDAN四季の練習にも
    最近あまり来ていない。

    でも、来るとドンは必ずあとかたずけを人に任せて。しんちゃんに数曲笛を吹いてあげる。

    ドンが言うには「ほかの誰よりも喜んで聞いてくれるから」だそうだ。
    ドンは舞台本番にしんちゃんが出たいときは舞台に一緒に上げて、紹介する。
     特になにもしないで舞台にいる。でもしんちゃんは嬉しい。


     
    入院しているときも、家にいる時も、私が録画したGAKUDAN四季やドンや私が出ているDVDばかり一日見ている。自分たちでも退屈している四季のDVD。何度もかけなおして、と頼んで見ている。

    彼のおかげでどこか四季は守られている気がしている。

    今度のコンサート、彼に何か楽器をもって舞台にいてもらいたい。