"日々のつぶやき"カテゴリーの記事一覧
-
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
-
みんなが引きこもっている。コロナのせいだ。
たいていの日本人はワーカホリックなので、じっとしていることに罪悪感を感じて、理由を見つけては無駄に動かないと気が済まない。
しかし、今回は外で動き回ることが世の迷惑になるというめったにない状況である。なにせ国を挙げて、集会を禁止し、引きこもることを推奨している。だから、いや、動きたいのにうごけないんだよ、とぶつぶつ言いながら、ようやく、静かにしているのではないかと思う。
でも、私は基本的に引きこもるのが好きなタイプなので、このような幽閉状態はな幸せですらある。仕事をしていない罪悪感からもちょっと解放されるというところだ。
だが、喜んでいる場合ではない。ドンが言うように、日本の経済がやばいというのも確かだ。
震災だとか、台風だとか、ウィルスだとか、オリンピックを控えたた日本に次々に貧乏の風が吹き荒れる。…私が仕事をしていないからという話もあるが。
昔、日本は戦争でたくさんの人の死と究極の貧乏から立ちるため、努力して平和と幸せを求めて、一時は頂点に上り詰めるほどの豊かな国になった。戦争を何十年もしなかったことで、私たちの世代は、何でも選べる自由を手に入れた。
けれど便利に。楽に。早く。と極めてふと気が付いてみると、自然を破壊し、食卓には危険なものが並び、家事労働から解放された時間で、自分は幸せなんだろうかとばかり考えている始末。
私たちの次の学びの段階は、自由に手に入るのに、手に入れないことを選ぶという段階ではないかという気がする。もっと稼げるけど休んで楽しむ。ただでくれるけど必要ないからいらない。給料は高いけれど、価値を感じない仕事はしない、買ったほうが安いけど修理して同じものを使い続ける。うーん。私には難しいことだけれど、今の若い世代は、そういった感覚を持っている気がする。
こんな風に貧乏の風が吹くとき、家から出られず、引きこもらないといけないときこそ、必要なものはそんなに多くない、ということに気が付ける時なのかもしれない気がする。
空っぽの冷蔵庫の中から探し出した一つの梅干しで、普段よく味わっていなかったご飯のおいしさに気づくこともあるかもしれない。
いま吹いている貧乏の風が、私たちをいい方向に軌道修正してくれるといいと思う。PR -
前回、赤毛の坊主になるを書いたのは10月16日だったのだなあ。
4か月以上たっている。神も伸びるはずだ。
今回は、脱色して本当の赤にしてもらった。近所で唯一行っている”iori”(庵)という美容&理容院だ。写真を持っていくと、魔法のようにその通りの髪型にしてくれる。腕がいい。
いつも切ってもらう店長はテンションが非常に低く、『iori』ってどういう意味ですか?的なことを聞いても、『ああ、あまり深い意味はないです。』と答える人だ。庵はまさにこの店長のキャラそのものである。このテンションの低さに癒されるのである。
脱色したのでかなりきれいに赤が入った。
明日から、また赤毛で走り回ろう。
店長と記念撮影! -
新年開けて、二週間たとうとしている。あと10日で半年前がやってくる。
ブログは滞っているが、手をこまねいていたわけではない。
1月4日四季の新年会。前日遅くまでたった一人で買い出し、準備をしながら、結局頼みのメンバーは欠席が多い。新年に出した、ご無沙汰している人たちに出した葉書は半分ぐらい帰ってきてしまった。連絡もつかない。疲れて気持ちがへんに落ち込んで、何もかも投げ出したい気分になってしまったが、数時間寝たら元気になり、立派に新年会のあとかたずけまで勤めあげた。なんか大人になった気がする。既に50だが。
以前に、琴の金木星のメンバーが、コンサートは無理だと言ってやめようとした時、出演をとりやめにしようとしたら、89歳のメンバー加藤先生に言われた。「せっかくやる気になったんだから、やめる人ではなく、いる人のことを考えよう。」来ない人より来る人に希望を持つべきだと。
1月6日琴、金木星で八雲苑で、ボラ演奏。どうしようかとうろうろしていうるちに、かたずけがはじまってしまったが、よし、と思い切ってコンサートの宣伝する。すぐにチラシは貼られ、職員さんが「ぜひ、行きたいです。」と言ってくれた。
1月11日、武蔵国府太鼓の輪鼓で、多摩センターライフケアセンターでボラ演奏。今回は宣伝兼ねて、琴を持参させてもらい、ドンの笛と一緒に、春の海のさわりと、上を向いて歩こう、北国の春もやった。病気していたリーダーの”おにいちゃん”が復帰し、久々に叩く太鼓は、気合いが入っていて、希望にみちた新年の演奏だった。また、我がハンメルンの笛吹きであるドンが、朗々と笛を吹いて、さらにみんなでご老人を誘い出し、太鼓の体験コーナーはすごい盛り上がりだった。最後に叩いたおじいさんはすごい力で叩き続けて、汗だくで爽快ないい顔になり、さらにみんなに誉められて饒舌だった。
でも、ドンはあとで、(脳溢血でも起こしたらどうしようかと思った)と恐怖をかたっていた。
1月12日は琴木星の新年会と、午後から、コンサートのゲストで来る奥山さんのワークショップがあった。
新年会で、私はみんなに演説をした。コンサートをすることになったきっかけと意気込みを語った。みんなよく聞いてくれ、リーダーの歌子さんも「頑張らなきゃね!」と気合を入れてくれ、メンバーの大さんもワークショップに向かう私に「気を付けていってらっしゃい!」と送り出してくれる。
この二人はいつも陰でいろいろと取り持ってくれたり、段取りをとってくれ、チラシをいろいろなところに撒いてくれたりして働いてくれている。いなくなる人もいるが、いるメンバーが現実を動かしてくれている。
まだ何も始まってないのになにか涙が出る。
自分がいろいろ表現するようになったのを感じている。伝わるかわからなくても自分の気持ちを迷わず言ってみるようになってきた。無言は楽だけれど、何も変わらない。ブログもそう。つい黙り込んでしまう私だが、こういった日々を書くことが面白いのか面白くないのかと迷うより、こうやって自分に起こっていることを、ちゃんと書いて表現していこうと思う。 -
コンサートのプログラムを初めて5か月前に作って以来、最初からプログラムに入れていて、消したり書いたりしながら、連絡を迷っていた人がいる。舞踊家の〇子さんだ。
そして、ドンは彼女のことを「なおこそっくりだ。」と言っている。自由で常識にとらわれない生き方や人の心配ばかりしているところなど、自分には真似できないが、劣等感の優越感のバランスが悪く、人とうまく折り合えないようなところが似ている気がする。
彼女は10年以上前にたった一人で私と同じような企画をし、大舞台をやり遂げた。今回の企画をやるほどに、その時の彼女の気持ちがわかってくるような気がする。なにか不思議な縁があることは間違いないと思う。
昨日立て続けにプログラムが決まってテンションも上がり、ミラクルを期待する気持ちでついに参加をお願いする電話をした。が、その日のうちに喧嘩して決裂した。言い訳しないで言うと、頼んだとたんに、猛烈な不安と呪縛と違和感が襲ってきたのが理由だ。
連絡がつかないイライラする日々、リハーサルに出ず、当日まで不確定な出し物、内容の紹介の困難、
〇子さんには申し訳なかったと思う。
私は、平凡な人生のたった一度の打ち上げ花火を上げようと思って企画したが、相変わらず線香花火のようだ。明るい光は見えてこない。ただ、最初これを決めた時とおなじ。やらなかった未来は見えるが、やった未来は成功であれ失敗であれ、見えてこない。
多分何一つ形になっていない状態だ。
でも以前より不安感が多かったのが、楽しさが少し増えてきて、今半分ずつぐらいになってきた気がする。昨日は昨日。今日は今日。
やれることは、とにかく後悔しないようにこつこつやるだけだ。 -
Nさんのバンド演奏を聴きに行った。平和まつりのプログラムだ。今日も「しびんちゃんの歌」は絶好調で、「銀色のランナー」、で車椅子で突っ走り、最後は皆で平和の歌「ケ・サラ」の合唱。(私は時間が押して最後まで聴けなかった。)
Nさんは同じ車椅子で、進行の遅い筋ジストロフィーのミュージシャン。
正直、そんなに歌はうまいわけではないが、ハートがあって、その場を暖かくする。いつもすごいミュージシャンに囲まれている。
Nさんに、なんで、そんなにすごいミュージシャンが集まってくるんですか?と聞いたら、「なんか、僕が可哀想に見えるからじゃない?」と身も蓋もないことを言う。
ダジャレを言いながら、しょっちゅうヘルパーさんといっしょに日本全国を旅して、小学校でコンサートを開いたりしながら、全国のうまものとうまい酒にありついている謎の人物だ。でも、平和についてはちょっとうるさい。
憲法9条を守るのは、死んだ母ちゃんとの約束だと言っている。
以前、Nさんが、私の参加している打・GAKUDAN四季を平和コンサートに誘ってくれたことがある。憲法9条を守るコンサートということだったが、メンバーのすべてが賛成しなかったので、結局没になった。当の私も、平和を守ってきたのは9条ではなく、日本人自身だと思っている。
Nさんに言われたことがある。
戦争が始まると、一番ひどい目に合うのは僕たちだよ。人ごとじゃないよ。
確かに、今は日本は平和なので、障がい者が威張っていられる。周囲にも障がい者には親切にしなければ、という強迫観念すらあるように見える。でもそれは、今の時代がいかに平和であるかという証拠なのだろう。
舞台の上で、反対を叫んで熱く政治反対演説を繰り広げる人の後ろで、Nさんは、ゴージャスなメンツとともに、出番までぼんやり待たされていた。時間は明らかに押しているが、熱弁はとどまるところを知らない。ふと振り返ると、少ない観客の誰一人聴いていない。
この場面ひとつとっても平和やなあ。と思う。
私も障がい者なのでなにか平和運動をした方がいいのかもしれない。けれど、やはり真剣になれない。眠たくなってしまう。
だって平和だから。
私は日本の今ここに平和はあるよ、と言いたい。オリンピックで外国に見せられるものはそれだと思う。いろいろな事件はあるけど、車椅子の私が生かされていて、威張って自分のやりたいことをやらせてもらっている。
中国にサークルで行って太鼓を叩いたとき、中国の市長が、車椅子の私が皆と一緒に来て太鼓を叩いているのを見て感動していた。今度は、こんなしょうもない私がコンサートを主催できる、日本の平和に驚いてもらいたい。 -
先月やめた会社から、失業証明がきたのでハローワークに行く。
すでに紹介された3件の会社に落ち、anで見つけた会社も落ちてしまっている。コンサートが決まってから、仕事に関する基準がはっきりしていた。キャリアになるかなどはどうでもいい。この一年、とにかく何でもいいので、近所の短時間パートの仕事を探す。素人が1800のキャパを埋める為には、新入社員として疲れ切っているわけにいかない。
書類を障害者窓口に提出すると前回と同じように細かく失業保険の話が始まった。隣では、おそらく精神障害の人が、会社で受けたハラスメントについて大きな声で話し続けていて、その声が大きいほどに、相談を受けた職員は目立たないように声を潜めていく。
「8月半ばには第1回目の失業保険が振り込まれます。」
ん?自己都合でやめたら3か月は失業保険はもらえないはずでは…?
「いえ、契期満了でおやめになっていますので、1か月で支給されます。」
契期満了には違いないが、3か月おきの更新をやめただけの話だ。
そういえば、前の会社のチームリーダーが、何度か私に契期満了でいいですか、とやたらに強調していたっけ。あれは責任逃れではなく、思いやりだったのか。
望んで就いたデザイン業務から、レシート検閲に回されて3か月、やめると言ったらびっくりして、自分のせいではないということを説得するのに必死のリーダーだったが、最後は心を込めてお世話になりましたと挨拶した。実際、あの時は毎日が鬱状態だった。リーダーはデザインには戻せなかったが、退職後について少しは考えてくれたということだろうか。「また、1年以上働いていらしたので、360日の支給の権利があります。」
私は就労困難者という扱いになるので失業保険が人の倍の期間受けられる。
手続きの済んだ私は、仕事検索のパソコンの前で、黙々とパートを探したけれど、心はいつしか上の空だった。
2年休んで、1年3か月働き、また失業保険をもらう49歳に、次の就職は難しいだろう。お隣で相談していた方と同じような運命が待っているかもしれない。苦難の仕事に従事している弟にも周囲の人にも恥ずかしくてとても言えない。
でも、でも……もらえるものなら、やはりもらおうか。面接の憂鬱。会社の中にいる苦痛。会社という場所では人間が変わってしまい、全身からマイナスオーラを出す自分。誰にも話しかけず一人でお昼を食べる毎日。失業保険が終わったら、この苦痛以外の道を見つけることはできないだろうか。能天気で、明るい自分でいられる道を。今がまさにそんな私なのだ。
苦しかった鬱鬱とした1年3か月。それは、今のための日々だったと自分に言い聞かせるのだった。