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1週間前、小波会のK先生に、 「コンサートに出るかどうか、来年のことなので自信がない。迷惑をかけてはいけないので、来週水曜日に参加するかどうか返事をする。」と言われる。
コンサートの演目の中で、越中おわら節と磯原節を歌いたいので、K先生に三味線をつけてもらうことを最初から頼んでおり、当然出演してくれるものと思っていた。だが、K先生が明らかに私が一人で立ち回るこのコンサートをよく思っていないことが感じられた。
しかし、K先生抜きではありえないコンサートである。
K先生。現在89歳。 先生の過去の苦労話については話せば長くなるので端折るが、奥さんの介護を20年したことだけ記しておく。
私のすべての音楽活動は、先生の導きであった。民謡を一年やったのもK先生の誘いで、何度も舞台に上げてもらった。琴を何十年ぶりに再開したのもK先生に誘われたからだ。稽古場をとるにしても、いろいろなライブをやるにしても、K先生と一緒、または、K先生に手助けしてもらってきた。自分が何か演奏するときは必ず見に来てくれ、お客さんを呼んでくれた。
そういった奉仕は私だけでなく、音楽好きで、いろいろな会を主催してきたK先生の周りの人は皆、その恩恵を受けており、皆が先生を頼り、先生がいつまでも元気でいてくれなければ、今の会は続かないと危惧していた。だから先生はこの数年の間に、ほとんどの会の会の主宰を降り、会員の中で後釜を決め、引き継いだうえで、自分は相談役のような立場になり、しかし、今まで通り企画・運営・設営から後片付けまで中心になってやっている。
先生は、いつも次の新しい趣向を考えていて、どうやったら和楽器同士でうまくコラボレーションできるか、もっと聞いている人が楽しめるようにするにはどうしたらいいか、考え、辛抱強く取り組んでいる。そして団地や老人ホームなどのいろいろなイベントに三味線を持ち仲間を連れてボランティアで演奏して回っている。
また、この年齢にして、地域福祉にも大変な貢献をしており、団地の会長を3年やり、団地の会計の不正などの問題も穏便に解決し、任期終わった今も、頼まれれば人の電球をとり替えにいき、争いごとの仲裁も、ゴミや掃除の担当もする。今は団地の連合会の役員もしている。集会場に関するあらゆる雑務を引き受け、電話一つで借りられるよう改革し、朝は一人で団地の草むしりをし、学校の交通整理もする。マスコミに出て有名になるような人生とは縁遠いが、地域の中で頼られ、なくてはならない存在になっている。
とにかくスーパー後期高齢者なのだ。
私は、今回のコンサートについて、もう一度先生の立場から考え直した。
なかなかはかどらず、停滞してしまっているとき、ふと、思いついて越中おわらを生で聞こうと、富山の風の盆前夜祭に夜行バスで行った。
そこで偶然にも行われていた越中おわら節のど自慢大会というのに参加し、歌半ばで鐘ひとつ鳴らされた。
惜しくもない敗退だった。風邪はひいていたが、音は外れていたし一息で歌っておらず、ただ楽しんで歌っただけのこと。
風の盆はすばらしく、私はそこに長く住み、同じ伝統の踊りや歌を飽きもせずに繰り返し練習し受け継いでいる人々を見、ああ、この歌は私は歌うべきではないと、実感したのだった。
家に帰った私は、プランを練り直し、出演者はK先生の名前でなく会の名前にし、唄はTさんにお願いし、私は胡弓に専念することにした。10分以上を先生の会に確保し、その他、他の演目にも沢山エントリーし、出番を増やした。
そして、ほとんどできていないMCの台本の中に、K先生の紹介部分を入れた。それをパソコンで打ち出しながら、いろいろなことを思い出して、また、私が企画したコンサートでインタビューを受ける先生を想像して、涙がぼろぼろでた。
「三味線はK。長年調布でボランティアであらゆる福祉施設で演奏を続けてきました。御年90歳になります。インタビューにお答えください。」
そして、ついに本日水曜日。
午前は稽古場をとっていたので、先生に「話をしたいのですが、今がいいですか。それとも昼からでもいいですか。」と聞いたところ、 「いや、2~3分で話は終わるよ。」
やはりの、不参加表明。
それからの話し合い。私は必死で「先生のお気持ちを考えて練り直しました。」と打ち込んだばかりのプログラムを見せる。
自分の歌では越中おわらは無理だと自覚したこと。会の普段の形態を崩さず、自分たちの音楽に専心してもらえるようにすることをひたすら説明した。
そして、おもてなしの権化であるK先生を舞台で紹介したいこと、K先生抜きでコンサートはあり得ないこと、まさに涙の説得だった。
最後はK先生、手を差し出して 「会のことを考えてくれてありがとう。やります。今から皆に伝えてくる。」 と握手。
先生は決めたらすぐに動く。
コンサートの演目の中で、越中おわら節と磯原節を歌いたいので、K先生に三味線をつけてもらうことを最初から頼んでおり、当然出演してくれるものと思っていた。だが、K先生が明らかに私が一人で立ち回るこのコンサートをよく思っていないことが感じられた。
しかし、K先生抜きではありえないコンサートである。
K先生。現在89歳。 先生の過去の苦労話については話せば長くなるので端折るが、奥さんの介護を20年したことだけ記しておく。
私のすべての音楽活動は、先生の導きであった。民謡を一年やったのもK先生の誘いで、何度も舞台に上げてもらった。琴を何十年ぶりに再開したのもK先生に誘われたからだ。稽古場をとるにしても、いろいろなライブをやるにしても、K先生と一緒、または、K先生に手助けしてもらってきた。自分が何か演奏するときは必ず見に来てくれ、お客さんを呼んでくれた。
そういった奉仕は私だけでなく、音楽好きで、いろいろな会を主催してきたK先生の周りの人は皆、その恩恵を受けており、皆が先生を頼り、先生がいつまでも元気でいてくれなければ、今の会は続かないと危惧していた。だから先生はこの数年の間に、ほとんどの会の会の主宰を降り、会員の中で後釜を決め、引き継いだうえで、自分は相談役のような立場になり、しかし、今まで通り企画・運営・設営から後片付けまで中心になってやっている。
先生は、いつも次の新しい趣向を考えていて、どうやったら和楽器同士でうまくコラボレーションできるか、もっと聞いている人が楽しめるようにするにはどうしたらいいか、考え、辛抱強く取り組んでいる。そして団地や老人ホームなどのいろいろなイベントに三味線を持ち仲間を連れてボランティアで演奏して回っている。
また、この年齢にして、地域福祉にも大変な貢献をしており、団地の会長を3年やり、団地の会計の不正などの問題も穏便に解決し、任期終わった今も、頼まれれば人の電球をとり替えにいき、争いごとの仲裁も、ゴミや掃除の担当もする。今は団地の連合会の役員もしている。集会場に関するあらゆる雑務を引き受け、電話一つで借りられるよう改革し、朝は一人で団地の草むしりをし、学校の交通整理もする。マスコミに出て有名になるような人生とは縁遠いが、地域の中で頼られ、なくてはならない存在になっている。
とにかくスーパー後期高齢者なのだ。
私は、今回のコンサートについて、もう一度先生の立場から考え直した。
なかなかはかどらず、停滞してしまっているとき、ふと、思いついて越中おわらを生で聞こうと、富山の風の盆前夜祭に夜行バスで行った。
そこで偶然にも行われていた越中おわら節のど自慢大会というのに参加し、歌半ばで鐘ひとつ鳴らされた。
惜しくもない敗退だった。風邪はひいていたが、音は外れていたし一息で歌っておらず、ただ楽しんで歌っただけのこと。
風の盆はすばらしく、私はそこに長く住み、同じ伝統の踊りや歌を飽きもせずに繰り返し練習し受け継いでいる人々を見、ああ、この歌は私は歌うべきではないと、実感したのだった。
家に帰った私は、プランを練り直し、出演者はK先生の名前でなく会の名前にし、唄はTさんにお願いし、私は胡弓に専念することにした。10分以上を先生の会に確保し、その他、他の演目にも沢山エントリーし、出番を増やした。
そして、ほとんどできていないMCの台本の中に、K先生の紹介部分を入れた。それをパソコンで打ち出しながら、いろいろなことを思い出して、また、私が企画したコンサートでインタビューを受ける先生を想像して、涙がぼろぼろでた。
「三味線はK。長年調布でボランティアであらゆる福祉施設で演奏を続けてきました。御年90歳になります。インタビューにお答えください。」
そして、ついに本日水曜日。
午前は稽古場をとっていたので、先生に「話をしたいのですが、今がいいですか。それとも昼からでもいいですか。」と聞いたところ、 「いや、2~3分で話は終わるよ。」
やはりの、不参加表明。
それからの話し合い。私は必死で「先生のお気持ちを考えて練り直しました。」と打ち込んだばかりのプログラムを見せる。
自分の歌では越中おわらは無理だと自覚したこと。会の普段の形態を崩さず、自分たちの音楽に専心してもらえるようにすることをひたすら説明した。
そして、おもてなしの権化であるK先生を舞台で紹介したいこと、K先生抜きでコンサートはあり得ないこと、まさに涙の説得だった。
最後はK先生、手を差し出して 「会のことを考えてくれてありがとう。やります。今から皆に伝えてくる。」 と握手。
先生は決めたらすぐに動く。
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