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四季にどの曲をやってもらうかについて考えた末、一日かけて、四季の調べ12曲から抽出したメドレーを作った。20周年のDVDを利用したが、業者が作っている為、画像をパソコンに取り込むことができず、アナログ録音して音を切り貼りした。
四季を織り込んで8分に納まった。自分では8分で四季の調べをうまくダイジェストにできていると思う。
一人一人の楽器の兼ね合いの問題はあるが、これなら聴いている人も退屈しないのではないかと思う。私はこういった創作能力というより、編集でいいとこどりをする能力は高い。まあ、そういう能力ってあまり自慢できないような気がしている。
しかし、30年近くこの12曲を、飽きもせずに教え続けてきた、ドンと衝突するのが不安になる。作曲者の藤城先生に聴いてもらう必要も出てくるのではないかと思う。
そういったわけで、今日は20周年のビデオを一日見る羽目になった。そこでわかったことはドンが私が”コンサートコンサート”と騒いで必死で走り回って今やっていることを、ずっと前に、すべてやっていたということだ。
四季の20周年コンサートの時、舞台に映像を入れることに関して、プロの身内メンバーに皆断られ、窮して私に頼んできたドンだったが、私はそれに対して期待以上の仕事をやり、パワーポイントで音楽入りの四季のテーマ映像を作った。
今見てもなかなか悪くない。
でも、今度のコンサートの為に、私が自分の貯金をはたいてお金で解決しようとしている、いろいろなエンターテイメントを、ドンは周りの人脈を使って、お金もあまり使わずに、見事にやりぬいていたことが、今頃になってわかった。
筋ジストロフィーのしんちゃんもしっかりと舞台で紹介し、しんちゃんのお母さんが手を重ねて一生懸命一緒に演奏している姿がしっかりと映像に残っている。私はあの頃はしんちゃんのことなど全く気にしていなかった。自分のことしか考えられなかった。
また、あの時は、皆の総意で打ち上げまですべて会費を使い、あの映画のようなDVDを含めて、今の倍の人数板メンバー誰一人お金を使わなかった。
今度は1000円の入場料で、キャパ1800の会場資金を私がたった一人ですべて調達しようとしている。さらにお金よりも恐れるべきはお客さんが集められるかということだ。だが、不思議に不安ではない。
私はずっと孤独だったので、何かを動かせるとも思っていなかったし、社会にうまく溶け込めなかったので、独りよがりを恐れて、ひっそりと生きてきた。何一つ夢も希望もなかったが、このチャンスを自分に与えることができてよかったと思う。徹底的に自分を疑わずにやってみようと思う。笑われても、足を止めたり、ひるんだりするまいと思う。
コンサートを一人でも満員にしてきたドン。人間力が私とは比較にならない。皆に愛される人間なのだ。彼の主催したコンサートに対して、私は少しでも超えられることがあるのだろうかと考える。まあ、奇跡を信じなくては。
さて、いつもモノクロに見える私の未来、この一年で色のついた映像が見えてくるだろうか。PR -
今度のコンサートに出演するにあたって、自分が本当に所属しているといえる団体が打・GAKUDAN四季である。
2012年~13年、20周年コンサートの時書いていたブログが見つかった。
http://poppoppop.janken-pon.net/
団長は、われらが柳ドンである。私は打・GAKUDAN四季に入って13年程になる。その間に琴や歌などで、ドンとの活動を他の場所に移してきたという感じだ。
メンバーは、最盛期は20人ぐらいいたのではないかと思うが、現在、あてにはならないが、常連といっていいメンバーは8人。福山型筋ジストロフィーのしんちゃんも所属しているが、同じ団員のお母さんの体調が悪くなり、今はあまり来られなくなっている。 しんちゃんをはじめとし、精神持っていたり、知的障害だったり、身体障害だったり、いじめられっこだったり、どこかに傷のないメンバーはいないといっていい。
客観的にこんなことを言っている自分だが、自分自身もその中で身体障害と精神の間ぐらいに属している人間だ。自分でもここだから13年も続いていると思う。
太鼓のグループにありがちな、熱いたすけあい、教えあい、向上心はこれっぽっちもない。誰かが新しく入ってきても、ドン以外は教えようという気もなく、自分の決まった仕事すら、それぞれがあまり自覚がない。その代り、誰がちゃんと動こうが、怠けようが、人のことは皆気にしていない。ドンがいるから大丈夫だと思っている。
ただ、土曜日にここにきて、くだらないことを言って、からんでいるともいえない会話をして笑いながら、だらだらと準備運動と基礎練習をし、四季の調べという府中の芸能としてつくられた12曲を日々練習している。
ただ驚くのはその継続力。ほとんどが10年選手であり、この団体自体が25年をこえている。この継続で、いつの間にか四季の12曲は下手ながら皆一通りこなせるようになった。 継続の根っこに唯一あるのはドンの存在であり、彼の、「四季はうまくないけれどもすごくいい」という信念だ。彼がごくまれに休むと、みな休もうとする。20周年コンサートも25周年コンサートも、ドンが「やろうか!」といっても乗ってくるメンバーはほぼおらず、結局ドンが一年がかりでなんとか皆を引っ張り、結局奇跡のような、心温まるいいコンサートになるという図式だ。
ドンも、くだらないことを言いながら、練習後このメンバーといつもの店で飲む一時が、何にも替えがたく幸せなように見える。
もともと、府中の新しい芸能である「四季の調べ」を普及するためのグループであり、市の支援も受けていたが、この四季の調べという四季を表わす12曲の曲が、もともと府中の応援歌として作られたにもかかわらず、あまりに地味であったためいまひとつ人気がでず、同時に作られた府中国府太鼓のように広まらず、人数の集まらない講習会はいつの間にか補助打ち切り、メンバーもドン以外は全くマイーペースかつ社交性がなかったこともあり、ある年の、ドンが留守だった芸術文化際において、府中の太鼓グループの不興を買い、参加を止められるに至った。今は明らかに府中の落ちこぼれグループとなっている。
来年のオリンピックコンサート。この四季に、調布の1300人のホールの、1000円のお金をとる舞台に、参加してもらうのである。
ドンは、私の四季への演奏依頼を、「太鼓を借りる為だろう。」という。それはそういう側面もあるが、実際、人数もそろわず、熱い思いもまったく見えないわれらが四季である。自分のオリジナルの荒馬の夢即興曲という新曲でなんとか新風を吹き込みたいと思うが、自分自身が新入りに教えたこともないまさに四季の権化たる人間であり、さて、この曲を皆に演奏してもらうにはどうしたらいいのか途方に暮れている始末だ。
また、府中の太鼓を借りるためには、四季の調べの曲を演奏しなければならない以上、何か12曲の中から演奏しなければならない。コンサートの予算は膨れ上がっている。私としては何とかお金を取ってもいい演奏をしてもらいたいところだ。
そのあせりを少し、四季のふしみんに訴えてみたけれど、「へえ~~。そうなんだ。」という具合。 おい、演奏するのは私たちだぜ。と言いたかった。
帰りに、やりつくした感のある四季の曲を思い返し、何だったらGAKUDANの良さが出るのだろう、と缶ビールを飲みながら考えた。
どうだろう。メドレーを作ってみようか。
そう思った。12曲の一番印象的な部分だけを集めて、四季メドレー。 著作権の問題はあるだろう。だが、作曲者藤城先生さえ、見向きもしない四季の調べ。市は何一つ補助も出番をくれることもない、打ち捨てられた12曲。落ちこぼれ8人が何とかつないでいる。メドレーにしたところで誰が非難するんだろう。
私は荒馬の楽譜作りの前に、メドレー案を考えて、ドンを説得してみようと考えた。 -
1週間前、小波会のK先生に、 「コンサートに出るかどうか、来年のことなので自信がない。迷惑をかけてはいけないので、来週水曜日に参加するかどうか返事をする。」と言われる。
コンサートの演目の中で、越中おわら節と磯原節を歌いたいので、K先生に三味線をつけてもらうことを最初から頼んでおり、当然出演してくれるものと思っていた。だが、K先生が明らかに私が一人で立ち回るこのコンサートをよく思っていないことが感じられた。
しかし、K先生抜きではありえないコンサートである。
K先生。現在89歳。 先生の過去の苦労話については話せば長くなるので端折るが、奥さんの介護を20年したことだけ記しておく。
私のすべての音楽活動は、先生の導きであった。民謡を一年やったのもK先生の誘いで、何度も舞台に上げてもらった。琴を何十年ぶりに再開したのもK先生に誘われたからだ。稽古場をとるにしても、いろいろなライブをやるにしても、K先生と一緒、または、K先生に手助けしてもらってきた。自分が何か演奏するときは必ず見に来てくれ、お客さんを呼んでくれた。
そういった奉仕は私だけでなく、音楽好きで、いろいろな会を主催してきたK先生の周りの人は皆、その恩恵を受けており、皆が先生を頼り、先生がいつまでも元気でいてくれなければ、今の会は続かないと危惧していた。だから先生はこの数年の間に、ほとんどの会の会の主宰を降り、会員の中で後釜を決め、引き継いだうえで、自分は相談役のような立場になり、しかし、今まで通り企画・運営・設営から後片付けまで中心になってやっている。
先生は、いつも次の新しい趣向を考えていて、どうやったら和楽器同士でうまくコラボレーションできるか、もっと聞いている人が楽しめるようにするにはどうしたらいいか、考え、辛抱強く取り組んでいる。そして団地や老人ホームなどのいろいろなイベントに三味線を持ち仲間を連れてボランティアで演奏して回っている。
また、この年齢にして、地域福祉にも大変な貢献をしており、団地の会長を3年やり、団地の会計の不正などの問題も穏便に解決し、任期終わった今も、頼まれれば人の電球をとり替えにいき、争いごとの仲裁も、ゴミや掃除の担当もする。今は団地の連合会の役員もしている。集会場に関するあらゆる雑務を引き受け、電話一つで借りられるよう改革し、朝は一人で団地の草むしりをし、学校の交通整理もする。マスコミに出て有名になるような人生とは縁遠いが、地域の中で頼られ、なくてはならない存在になっている。
とにかくスーパー後期高齢者なのだ。
私は、今回のコンサートについて、もう一度先生の立場から考え直した。
なかなかはかどらず、停滞してしまっているとき、ふと、思いついて越中おわらを生で聞こうと、富山の風の盆前夜祭に夜行バスで行った。
そこで偶然にも行われていた越中おわら節のど自慢大会というのに参加し、歌半ばで鐘ひとつ鳴らされた。
惜しくもない敗退だった。風邪はひいていたが、音は外れていたし一息で歌っておらず、ただ楽しんで歌っただけのこと。
風の盆はすばらしく、私はそこに長く住み、同じ伝統の踊りや歌を飽きもせずに繰り返し練習し受け継いでいる人々を見、ああ、この歌は私は歌うべきではないと、実感したのだった。
家に帰った私は、プランを練り直し、出演者はK先生の名前でなく会の名前にし、唄はTさんにお願いし、私は胡弓に専念することにした。10分以上を先生の会に確保し、その他、他の演目にも沢山エントリーし、出番を増やした。
そして、ほとんどできていないMCの台本の中に、K先生の紹介部分を入れた。それをパソコンで打ち出しながら、いろいろなことを思い出して、また、私が企画したコンサートでインタビューを受ける先生を想像して、涙がぼろぼろでた。
「三味線はK。長年調布でボランティアであらゆる福祉施設で演奏を続けてきました。御年90歳になります。インタビューにお答えください。」
そして、ついに本日水曜日。
午前は稽古場をとっていたので、先生に「話をしたいのですが、今がいいですか。それとも昼からでもいいですか。」と聞いたところ、 「いや、2~3分で話は終わるよ。」
やはりの、不参加表明。
それからの話し合い。私は必死で「先生のお気持ちを考えて練り直しました。」と打ち込んだばかりのプログラムを見せる。
自分の歌では越中おわらは無理だと自覚したこと。会の普段の形態を崩さず、自分たちの音楽に専心してもらえるようにすることをひたすら説明した。
そして、おもてなしの権化であるK先生を舞台で紹介したいこと、K先生抜きでコンサートはあり得ないこと、まさに涙の説得だった。
最後はK先生、手を差し出して 「会のことを考えてくれてありがとう。やります。今から皆に伝えてくる。」 と握手。
先生は決めたらすぐに動く。 -
ドンと、味の素スタジアムに行ってみる。
今週の日曜日、地元国領のふれあいコンサートのリハーサルを抜けて、調布の市長と話すので、その前に一度も言ったことがなかった味の素スタジアムを見ておきたかった。
話すなんて、実際一言も直接は離せないかもしれないが、無作為抽出の、「市長とふれあいトーキング」という企画の市民参加の一人にあたったのだ。
私は申込用紙に、「オリンピックに向けて、味の素スタジアムで屋外パフォーマンスをして、外国の方々をおもてなししたい。」と書いておいた。
正直、コンサートのチラシを撒きたいという下心がある。だが、他にも乗ってくる人はいると思う。
なにせ、一生一度のオリンピックだ。ここでアピールしなくていつするのだ。 味の素スタジアムから調布は駅二つぐらいなのだから、オリンピック開催中に呼び込みをした方が効果があるというものだ。
しかし、街頭パフォーマンスはお手のもののドンは言った。
〔ここは、オリンピック期間中は人が込み合って、通るのも大変な通路になる。ここでパフォーマンスは無理。調布駅前あたりでイベントをする方が効果がある。それに、オリンピック当日にパフォーマンスをしてどうなるんだ。みんなオリンピック競技を見に来ているんだぜ。〕
私は、オリンピック期間、当事者や観戦者は、空いた時間はスタジアム周辺内外と、飛田給の駅付近を物色するとは思うが、電車を使って遠くにいくことはないのではないかと意見を戦わせた。
とにかく、飛田給には何もない。また、スタジアムでに通路にならない場所は、屋上などぐらいしか見当たらない。しかし屋上は大変な暑さになると思う。今やっている工事が、屋根やテントをつけようと思ってのことなのかわからない。
私は、まるで縁日のように、スタジアムのいろいろな地点で、タイムスケジュールを組んで、パフォーマンスをやっていたら、面白いのにと思う。お祭りなんだから。
日曜日、市長に何か印象を与えられるといいのだが。 -
企画書のようなものとチラシを作った。
まだ、はっきりと打診していない人が沢山いるが、なにより、対象が外国のお客さんなので、肩書やプロもアマも関係ないと感じる。
それよりも外国で馴染みのない楽器、そして、日本固有の芸能の名前を挙げて、わかりやすく訳すことが先決だ。
今後、自分の就職活動の足しにもなるかもしれないというせこい保険をかけ、ワードプレスでコンサートの特設ホームページを作ろうと思う。
姉の翻訳を頼めることに希望託している。
小さな力でも、このネットの時代、宣伝の仕方によっては大きく飛躍できることが証明できればいいと思う。 -
先日久しぶりにGAKUDAN四季の練習にしんちゃんを、おかあさんが連れてきた。
しんちゃんに「コンサート一緒に出ようね」と言ったら笑顔で目を輝かせている。
お母さんは病気になって以来、十年以上続けてきた四季をしんちゃんと二人、休会しているが四季の稽古場を毎月二回確保してお金を払いに行くという、一番大変な作業を続けてくれている。
マンネリが続き、府中の芸術文化祭からも追い出され、出るイベントも数少なくなった私たちのサークルに、休会しても奉仕を続けてくれるのはなぜか。それはしんちゃんが朝から何度も何度も、四季やドンの映像を繰り返してみるほどに四季が好きだからだ。今度のコンサートにしんちゃんが何か楽器で参加できないものかとしんちゃん母さんに行ったところ、しんちゃん母さん「いい人がいるのよ、今度はなすね。」 そしてDVDを持ってきた。
https://youtu.be/GPKavugNz_A
このドキュメントにでてくるお医者さんが、知り合いで、しんちゃんに力を貸したがっているという。
このところ、しんちゃんは声が出せないはずなのに、息遣いで会う人会う人にコンサートに出ることを話すそうだ。やっぱり演奏したかったんだということがわかると、目頭が熱くなる。同時に、これはいい加減にはできないと思うのだ。 -
時計台コンサートの数日前、飛行機乗務員である姉のホテルに泊まる。
ラインで、きょうだいに、「(2階席をつぶして)1300人のホールを借りました」と書いてから、その後、何の感想も書いてくれなかった、母、姉②、姉③、弟、のなかの一人である。
さて、何を言われるかと思いつつ、ホテルに泊まった所、 「これ、あげる。」 と本を渡された。 ”前祝の本”を2冊。
「とにかく、今のうちに祝うんだよ。」
そういって 「満員おめでとう!!すごい公演だったね。」などと祝い始めた。私もすかさず、「北海道の成功はあの時のホテルでの話がよかったよね!」と熱く祝ってみた。
あんた、本当に好きなんだね。よし。私の友達に日本語ペラペラがいるから、紹介するよ。お金なんかそんなこと考えなくていいんだよ。お母さんと康孝(弟)も動員してやるよ。本気でイメージすればその通りになるよ。私も今日はこんな奇跡があって…
やはり、ネアカなきょうだいは頼れる。 -
ドンと、ドンの笛の弟子、ドン主催の打・GAKUDAN四季のメンバー・ドンの息子てつ・そして俳優座現役女優YURIKOでおこなった、2019年8月2日「ここは、札幌時計台 はっぱのフレディ―音楽会」の顛末を話そう。
2か月ちょっとの稽古をしてのぞんだ時計台。 今年、正月に私の家にメンバーが集まり、結団式をやったものの、一人を除いて北海道と縁はなく、唯一の半札幌市民、ぷーこは、自分が言いだしっぺだったにもかかわらず、私は知らない、ドンがやるというからやっただけだと、全く協力する気配なし。
ドン一人が、「なんか、満員になる気がする。」とつぶやいていた。 トンにとっては最初は乗りかかった船だったが、結局、自分の愛する札幌の教え子が時計台ホールを探してくれ、その他何くれとなく手伝ってくれたことに力を得ながら、定年前の仕事の忙しさのなか、最後の二か月で20日に及ぶ練習と演出と宣伝活動、会計、連絡、なにより、すべての笛の演奏の指導とリードを行い、進行もMCも一人でやるという荒業を成し遂げながらも、いつものことなので、特に感謝もされず、相変わらずサンドバックとなり、皆のいろいろな不満も受けながら、平然とやっている。
周りに集まるメンバーはほとんど彼に頼り切っているというのが通例だったが、今回は違った。
まずは言いだしっぺの、いつもため息と不平の絶えない今までの私の知るぷーこの歴史の中で、最大の貢献を今回はみせ、札幌のラジオに宣伝を読ませ、時計台のチラシを持ち込み、協力者をゲット。札幌オリンピックの虹と雪のバラードの地下鉄チャイムを録音し、友達を沢山動員し、フラフラになりながら、接待した。
また、メンバーに最後に加わったのりこんは、突然、北海道新聞で勤めている親戚を使ってカラーで新聞に記事を掲載するという奇跡の幸運をもたらし、
YURIKOは相変わらず、目の障害や、80を超える年齢をものともせず、北海道遠方に、劇団関係者を結集させ、猛暑の中一度も休まず朗読の練習に稽古場に通う。
私は、皆の旅行の手配を早くに行い、、やめた前の会社でほぼ無視されたデザイン技術をつかって、なかなか出来の良いチラシと、PVを作り、フェイスブック等の宣伝を行うことで力を発揮。
pv
https://www.youtube.com/watch?v=ol_2hzaxrYw
練習する中で一番苦労したことは、時計台の鐘の音をどうやって、いいタイミングで最後の演奏にかぶせて鳴らすかということだ。
ドンは時間感覚が並はずれていて、MCをやりながら、演奏をやりながら、時間的なことは肌で感じていていつも時間ピッタリに終えることができる。
その自信があるからの執念といってもいい粘りで、何としても鐘のタイミングにこだわっていた。 プロの女優の朗読を、笛の合図で引き延ばしたり、ないはずの演奏を入れたりして間延びし、実際、かなり厳しいものがあった。
ところが、実際に時計台に来た8月1日。聞いてみると時計台の鐘は人力でねじを巻くというクラーク以来の旧式の時計であり、音も素晴らしくいい音ではあるが、とても小さいということが判明。
これでは、演奏がかぶさると聴こえない。
1日の昼過ぎに聴いた数回の鐘の音によって、「鐘の音は気にしないことにしよう」ということになりかかっていた。
ところが、帰る直前、もう一度冷房も入らない全開の窓の中で、鐘が時を知らせた。 その音の美しさにみな、聞き入る。アナログな音。拡声されない、静寂の中で聞こえるビルの谷間の小さな教会の刻の声。
ドンは、「これはすごい。」といった。「やっぱり気にする。」
そして、当日。 お客さんは、100人。150人定員だったが、150人だと4人掛けになる狭い椅子が、3人ずつ座ってゆったりとした満員だった。気温は50年に一度の猛暑。
そして葉っぱのフレディ―。
鐘のタイミングを知らせるドンの笛の合図は2回。「このまま行け。」だった。 今考えると、全体的に遅れていたのに不思議な判断ではあったが、ドンは、他の着地点を見つけていた。
YURIKOはお客さんの反応を見ながら、のびのびと朗読を続ける。本当は最後の演奏の途中を狙った鐘のタイミングは…。
「フレディ―は眠りに入りました。」 ちょっと間をおいて、鐘はなった。
みな、動作を止め、心の中で「奇跡だ。これは。」と思っていた。そして、演奏も朗読も何もない沈黙の中、観客を含めた全員が、8回の鐘の音に耳を澄ませる1分間。
終わった後の拍手はなりやまず、今回のドンの計算違いは、皆の紹介が拍手で聴こえないことだけだった。
ま、ドンがいるから、来年のコンサートは大丈夫に違いない。 -
先月やめた会社から、失業証明がきたのでハローワークに行く。
すでに紹介された3件の会社に落ち、anで見つけた会社も落ちてしまっている。コンサートが決まってから、仕事に関する基準がはっきりしていた。キャリアになるかなどはどうでもいい。この一年、とにかく何でもいいので、近所の短時間パートの仕事を探す。素人が1800のキャパを埋める為には、新入社員として疲れ切っているわけにいかない。
書類を障害者窓口に提出すると前回と同じように細かく失業保険の話が始まった。隣では、おそらく精神障害の人が、会社で受けたハラスメントについて大きな声で話し続けていて、その声が大きいほどに、相談を受けた職員は目立たないように声を潜めていく。
「8月半ばには第1回目の失業保険が振り込まれます。」
ん?自己都合でやめたら3か月は失業保険はもらえないはずでは…?
「いえ、契期満了でおやめになっていますので、1か月で支給されます。」
契期満了には違いないが、3か月おきの更新をやめただけの話だ。
そういえば、前の会社のチームリーダーが、何度か私に契期満了でいいですか、とやたらに強調していたっけ。あれは責任逃れではなく、思いやりだったのか。
望んで就いたデザイン業務から、レシート検閲に回されて3か月、やめると言ったらびっくりして、自分のせいではないということを説得するのに必死のリーダーだったが、最後は心を込めてお世話になりましたと挨拶した。実際、あの時は毎日が鬱状態だった。リーダーはデザインには戻せなかったが、退職後について少しは考えてくれたということだろうか。「また、1年以上働いていらしたので、360日の支給の権利があります。」
私は就労困難者という扱いになるので失業保険が人の倍の期間受けられる。
手続きの済んだ私は、仕事検索のパソコンの前で、黙々とパートを探したけれど、心はいつしか上の空だった。
2年休んで、1年3か月働き、また失業保険をもらう49歳に、次の就職は難しいだろう。お隣で相談していた方と同じような運命が待っているかもしれない。苦難の仕事に従事している弟にも周囲の人にも恥ずかしくてとても言えない。
でも、でも……もらえるものなら、やはりもらおうか。面接の憂鬱。会社の中にいる苦痛。会社という場所では人間が変わってしまい、全身からマイナスオーラを出す自分。誰にも話しかけず一人でお昼を食べる毎日。失業保険が終わったら、この苦痛以外の道を見つけることはできないだろうか。能天気で、明るい自分でいられる道を。今がまさにそんな私なのだ。
苦しかった鬱鬱とした1年3か月。それは、今のための日々だったと自分に言い聞かせるのだった。
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胡弓の木場先生にコンサートのことを話したとき、言われた言葉に胸が痛んだ。
「結局コンサートにいそがしくてオリンピックは見られないかもね。」といわれたとき、私は
「スポーツはあまり興味ないんですよ。」といった。すると
「それは口に出さないほうがいいよ。オリンピックを利用しているだけだと思われるよ。パラリンピックじゃダメだったの?人の支持は得られるよ。」
言われてみれば、車いすの私がパラリンピックを音楽で応援するという図は話題になるに違いない。そんなことは全く考えていなかった。車いすバスケも1年程でリタイヤした私である。
自分はオリンピックを利用しているのかもしれない。ただ、それがパラリンピックであれば、それは私の心が全くそちらに向けて動いていなかっただけにさらに利用したことになる。
動機が問題。動機が心を動かす。それは自分の心もそう。周囲の心もそう。行動が無私で純粋であるかどうかが、行うもの、それを支援するもの、すべてのエネルギーになる。
中学校の時から無気力だった。悩む気力もなかった。無為に生きてきた。その私を動かしているのは「オリンピック」と「調布」というキーワード。
調布は私が18の時から、劇団に入ったり、住んだりしながらずっと一人で生きてきた場所。けがをしたときは、福祉で家族よりお世話になった場所だ。恩返しなんて偽善はない。ただ、調布でやりたかった。
30年住んだ調布にこだわること、オリンピックにこだわること、それは確かに何かを利用することに口実をつけることかもしれない。
でも、そのキーワードのお蔭で、まず、この自分の心が動いている。
オリンピックは私だけでなく、日本人一人一人がなにかのチャンスにできるはず。
自分の「時」にうまく合えば、であるが。いまでも震災の後遺症に苦しむ人もいる。でも、それでもオリンピックで希望をもちなおすことができるかもしれない。
それは、スポーツで勝つことかもしれない、英会話を試すことであるかもしれない、ものを売ってお金を得るチャンスかもしれない、自分の商売を世界に売り込むことであるかもしれない、日本の素晴らしさを世界に見せることであるかもしれない。
わたしもスポーツはできないけれど、オリンピックに音楽で参加するのだ。大きな目で見ると小さな成功、そして自分の中での100パーセントの大成功を目指したい。